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落書

何かに疲れたときに僕氏が何かを吐き出して現実に帰っていくための架空の場所です。

「物語に終わってほしくない」という癖

悶々として、2年ぶりに駄文をしたためにここに帰ってきた。別に、なにというわけでもないんだけど。

物語について。

物語は終わり方が肝心という。登場人物たちの「すべて」を語り尽くす手前で筆を擱くことで、「あのあとどうなったのかな」と読者に想像させて楽しませるという発想である。そう、余韻というやつである。
この余韻を味わうっていうのが、昔から苦手だという気がしている。何故そんなところで書くのを止めてしまうのか、といつも思ってしまう。その登場人物たちをもっと見ていたい、最後を見届けたい、と思う。いや、終わりなんて来なければいいと思う。思えば小学生の頃からそんな癖があった。

例えば登場人物たちの最後がとても想像できないような物語がある。「らんま1/2」では、あたかも終わりなきはちゃめちゃの日常がずっと続いていくかのように、物語は「進展」しない。たしかに登場人物は歳をとり、らんまは新しい技を覚えて強くなり、恋愛模様も移ろうが、しかしそれらすべてが永遠に続いていくのではないか、という印象を受けなくはないか。少なくとも僕は受けた。そして、このような印象は、「ここから先は、延長戦」という印象的な一言とともに物語が閉じられたとき、確かめられた気がしていた。小学生だてらに、本当にその後、永遠にあの世界のあの日常が続いていくのだと信じていた。

そのせいか、「余韻」って何なのか今だによくわからない。その物語の世界はしっかり、ずっと続いていくはず(と少なくとも僕は想像する)のに、「余韻」という言葉は、恰もそこに何らかの限界があるような感覚を生む。しっかりとした実線で描かれた世界が、筆を擱かれたところから段々と薄れていき、いつか光が届かなくなって消える、というイメージ。「余韻」という言葉からはそんなイメージを受けるが、しかしその物語の世界は永遠に続いていくはずじゃないか。作者が筆を擱いたというこちらの世界の事情に何故あちらの世界が影響されるのか。気に入らない。

きっとそんな妄想癖があるから、僕は「二次創作」とか「アニメ版オリジナルストーリー」とかが好きなのだろう。筆を擱かれてしまった、そのせいでこちらの世界から見えなくなってしまった物語が、実際はしっかり存続しているということを確認させてくれる。あるいは、シュタゲにあったような「物語の新たな分岐」も好きだ。ちなみに、原作と離れた二次創作やアニメ版オリジナルストーリーは、物語全体を揺らがしてしまうから苦手だ。原作厨乙。

さてなんで急にこんなことを言いだしたのか。論博士論文からの現実逃避なのだが、研究をしていると、「これだ!」と思う所に行き着くことがある。この視点をもう少し掘れば何かに到達するんじゃないか、とか、この分野をもう少し巡回すればブレイクスルーがあるんじゃないか、とか。
どうも、そんなときに、この「物語に終わってほしくない」という癖が出て来ているようなのである。というのも、最近気づいたのだが、そういう所に行き着くと、反射的に、「その先を見たくない」と思ってしまう。その先を見ると何かが終わってしまうと思ってしまう。そして集中力が霧散していく。その先を読み進み検討を続けるのに、一呼吸が必要になる。

この悪癖、感情の動きなので如何ともし難いのだが、実際のところ勘弁していただきたい。客観的に見れば、単に生産性が落ちているだけの現象である。しかしそんな理性でコントロールできるほど人間は甘くない。そして自分にはとことん甘い。

「これだ!」って思っていても、結局コレジャナイ、ってことが多いのも経験的にわかってきた。あるいは、実際に「これ」だったとしても、その先に新たな問題が立ち上がってくるのが常である。そして、学問/科学は(ほぼ)永遠に終わらない、というのもすくなくとも歴史が証明している。そう、マクロで見れば、僕は学問/科学という永続的営為が本質的には好きなはずなのだ。ここには、僕が死んだ後も終わらない物語があり、そこに何かを書き込むことは僕にももしかしたらできる。

しかし、日々のミクロなプロセスのなかで、小さい物語達の終わりを(誤って)直感したとき、ふっと引いてしまう。困ったものである。もう少しうまく機能してくれないか、理性よ。

という、2年ぶりに書いたものは博論の箸休めの愚痴・言い訳という、あまりにもアレな僕ですが、これからも真面目に頑張ります。博論終わらね(´・ω・`)