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落書

何かに疲れたときに僕氏が何かを吐き出して現実に帰っていくための架空の場所です。

日常の「正しいよね」のミスコミュニケーション

狭義の「正しいよね」は事実認識の正誤についてなのだけども、それ以外にたくさんの「正しいよね」が日常言語として使われていてそれが結構ミスコミュニケーション生んでると思うって話。だから僕はあんま正しいを使いたくない。それと、価値観の混ぜこぜは不幸を生むよねってはなしも。

僕の経験によると日常言語における「正しいよね」は、事実認識についての言明である以外には、含意として「(僕のあるいは一般通念上の価値観に照らして)正しいよね」という言明である。まず発話者の価値観に照らされているのかそれとも発話者が人口に膾炙していると信じている価値観に照らされているのか、つまり主観か客観かがあいまいなことがある。まぁこれは「僕は正しいと思う」と言えば主観であり「それは正しいと思われている」と言えば客観で、そもそも文脈でほぼわかる。しかもこのレベルならコミュニケーションに支障をきたすレベルの混乱はないと思うのでさしたる問題ではない。というかむしろ、この点を指摘するのがそれ自体がコミュニケーション力不足っぽい。説明がうまくできないので名古屋大学の大屋教授の言い方を借りれば、そこは「日常的な水準で言語理解」できていれば問題にならず、「普通は[...]分析をしなくても[...]発言の意味は日常的に了解可能」というレベルの問題である。(「おおやにき」より引用)

僕が指摘したいのは、そこでいう価値観とは何の話なのかが不明な点だ。当たり前だが価値観には種類がある。酒井穣氏によれば、それは「快/不快」「損/得」「善/悪」「美/醜」の四階層で、後ろに行けば行くほど個人差が増えるという(この酒井穣氏の対談記事は別の趣旨を持っていて面白い内容なので僕の記事なんてここでやめて一読しにいくことを勧める。僕はこの価値観のパターン分けだけ借用してその趣旨とは別のトピックを書いている)。そして、お好みであればこれ以外にも「面白い/面白くない」や「かっこいい/ダサい」などを想定してもいいだろう。

正しいという言葉は、なんとなくだが、事実認識の正誤を言っているのが50%、善悪の判断を述べているのが30%、損得の判断を述べているのが15%、あとはそれ以外の何か、で使われている感じがする。ここらへんを区別する言い方をしてくれない人がいて、ちょっと会話にならないことがあるので、そこらへんははっきりさせておこうよと思う。「ビジネスとして正しい」とか「人間として間違ってる」とか言えば、ああ前者は損得判断の言明で後者は善悪判断の言明だとわかる。そういう言葉遣いしていこうよと。

「正しい」を使わずに、あけすけに「損だよね」とか言うのもいいのだけど(わかりやすくて僕は好きだけど)、しっかり包まれた日本人的な言い方を好む人が多いのでその人との関係が大事なら言葉遣いには気をつけるのが戦略的でしょう。逆にぶっちゃけトークを好む人もいるのでそこらへんの見極めができるといいよねぇ(僕もこの判断をよくミスるので修行中です)。なお単に事実認識の正誤についていう場合は「それは事実だよ」か「事実じゃないよ」と言えばいい。あるいはそれがわかるような言い方をすればいい。

ちなみに、価値観の衝突をどういなしていくのかというのが日本が抱える一個の課題だと思っている。芸能人が全開の芸を出せないのとかは、「面白い/面白くない」の判断の世界と「善/悪」(あるいは「美/醜」の時も)の世界の混同が起きているからであり、これをどう調整すべきなのかは僕にはまだ丸い答えがない。お笑いの世界はお笑いの世界なのだから「面白い/面白くない」だけで判断すりゃいいし、見たくない人は見ないという選択ができるのだからそこに特殊な価値観が支配する部分世界を成立させるのもいいと思うのだが、一方でそれによりマジで精神的に苦しむ人が背後にいるということを想定すると無制限なのはいかんなぁとも思う(このへんが自分も法学部出身だなぁと思うところ)。そこでどうラインを引いていくかなんだけど、現状がちょっと自粛方向に寄りすぎているとは思うかなぁ

あー研究すすまねーな