落書

何かに疲れたときに僕氏が何かを吐き出して現実に帰っていくための架空の場所です。

さいばんしょさんがお疲れのご様子

裁判所が社会でどのような役割を担っていくかというのは一個の問題であって、裁判所が決定するに適する事象と適さない事象がある。こんかいの大飯原発に関して福井地裁が差し止めを命じる判決を出した件は、その微妙なボーダーラインを検討するのにいい素材を提供している。Blogosなんかを見ると怒涛のように記事が出ていて、すごく勉強になる。こちらのリンクをとりあえずどーぞ

http://blogos.com/news/Ooi/

大づかみに言えば、社会をどの方向に動かしていくのが適切なのかという議論が大前提としてあるべきで、いい方向に向きやすい意思決定・問題解決のプロセスを各イシューごとに設定するのが大切なんだと思っています。たとえば同性愛者への差別の問題とかは、個人の権利を敏感にケアすることができる裁判所で問題解決を図るのはイイカンジな風がする。一方で、今回の大飯原発訴訟のほうはどうでしょうか。この原発の問題を人権の問題と理解する人にとっては、裁判所に訴えることは至極最もなんでしょう。一方で、その経済的価値を適切に判断すべきという立場からすれば、裁判所が何かを判断するのはピントはずれな感じがするでしょう。僕は後者の立場なんですが、まぁそれはここではいいとして。

ひとつメタのレベルの問題として、問題解決のプロセスを選択するという発想が裁判所という制度には十分に織り込まれていないんじゃってところが気になっています。裁判所に訴えると決めた場合にそれを否定することは基本的に裁判所にしかできず、訴えられた側としては裁判が適切じゃないと思うならなんで裁判が適切じゃないかを議論するんですが、その場合の判断基準は法律で解決できる争訟かどうかであり、裁判所での解決が正しい問題解決を導く上で適切かという議論には、政治的なイシューを除いてはあまりならない。そして、おそらくその点を暗に指摘する心を込めた批判として、裁判所の意思決定大衆迎合的だという意見が出ているっぽいですね。

「人の生存そのものにかかわる権利と、電気代の高い低いを同列に論じること自体、法的に許されない」というとことか、ほんとに裁判所だなぁって感じる。問題は、原発のセキュリティだとか安全に稼働できるのかとかそこらへんの科学的な議論をする場所として、裁判所は判断が人権方面に偏りがちな場所なんじゃないかという点だと思います。つーかやっぱ、熟議からの民主的解決が適切なイシューなんじゃねえの。

他にもたくさん問題を炙り出せる面白い一件だと思います。ろくすっぽ調べずに書いたので何か事実認識として間違ってたら教えてくれるとありがたいです