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落書

何かに疲れたときに僕氏が何かを吐き出して現実に帰っていくための架空の場所です。

Science and Art of Deliveryなど

最近、いろんな学問に手を出して混乱気味な気がする。どうも調子が上がらないというか、考えが洗練されてこない。それはつまりスランプなのか。ああ、馬鹿なのか!ちょっと息を抜く代わりに、世銀のときにちょっと触れたもののしっかりまとめる機会のなかったScience of Deliveryについて読んでみた…ら、熱くなったので、続くかも。(1)となっているけど、いまのとこ構想とかないっす。

マッキンゼーがまとめた論攷集
http://mckinseyonsociety.com/voices-on-society-the-art-and-science-of-delivery/
世銀ブログ集
http://blogs.worldbank.org/category/tags/science-delivery

以下は、このリンク先のものを読みながら書いた。


大規模に効率的に効果的に持続的に、健康・教育・食・金融その他のサービスをそれを最も必要としている層に提供(Delivery)する。その提供方法を改善する技術を科学的に分析して広めるべきである(Science)。それは必ずしも言語で記述あるいは伝達できるとは限らず、経験知・暗黙知(Art)も必要である。以上が基本コンセプトだ。世銀総裁のジョン・キムは、この表現を去年の東京での世銀IMF総会でも使用した(総裁は、Artとは言わないが、含意していると思われる)。

この基本的理解を、マッキンゼー記事はさらに分析している(引用)
”Delivery is both an art and a science. We think the art is in the innovation and adaptability of the actors and different delivery models, while the science lies in replicating and scaling those models. The needs are great—but so are the opportunities and the resources that we can mobilize if we all work together. - See more at: http://mckinseyonsociety.com/voices-on-society-the-art-and-science-of-delivery/#sthash.38WC9JkG.dpuf

プロダクトを提供する主体が、革新的な提供方法をデザインしたり、環境変化に自在に適応することは、経験値・暗黙知の支配領域で、それに対し、革新・適応の成果物を拡張・移植することは科学の支配領域であると。もちろん境界線に揺らぎはあるが、これはそのまま、学界(社会科学)と実務界の支配領域を反映しているように思える。学者は社会で起きていることを研究対象にしていて、その主眼は、なぜそのような現象が起きたのかという分析である。例えば、アラブの春はなぜ起きたか、という問いを立てる。そして現状の正確な把握は、将来予測をある程度可能にすると考えられている。EUでうまくいった政策を、日本に移植した時うまくいくのか。それを考えるために、EUで上手くいった要因を把握し、それが日本にもあるか調査する。あるいは上手くいかなかったアメリカで上手くいかなかった要因を把握し、それが日本にはないか調査する。その上で、よっしゃイケるってことで政策移植をする。これが学界目線で見た理想的な移植であり、科学的に分析しやすい領域である。もちろん、他にも大事な要素は絡みあい、政治的な駆け引きやスピード感、国際情勢などがあり、それをやりくりして必要なときによい政策をぶちこむ、それは依然、言葉で説明しきれない要素を含むから、暗黙知の領域で、熟練した実務家の出番になる。Science and Art of Deliveryとは、たとえばそういうことだと思う。



ここでちょっとズレるけど、なんとなく、Science of Deliveryのちょっと上流の問題について。具体的には、学界で生まれた知見をいかに実務に落としこむかについて。世銀で抱いた感覚は、その変換効率の悪さだった。最近流行りの”熟議”と通底する問題で、民主主義が抱える原理的な難しさと近い。

日本国民が話し合ってみんなでわいわい意見を出し合って喧々諤々して、国の方向を決めていくのが本当の国民主権であり民主主義のはずだった。しかしそれができないから、選ばれた人を国会に送り彼らの意見を全員の意見と呼ぶことにした。専門的な業務はその道のプロにやらせるのがいいだろうってことで、官僚が生まれ、官僚は公平であることが求められた。そうやって政府はギリギリ機能した。官僚は政治が決めたことを実行する部隊。熟議民主主義では、話し合いを政策決定の過程に上手くデザインして組み込み、政策を改善し、さらに政策の正統性を向上する。多様な意見を吸い込んでいかに良い結論を導くか。それも、正解がわからない問題に対して。これが制度設計の上で答えなければいけない基本的な問いだ。

学界で生まれた意見が、いかに世銀に流れるのか。その変換効率はどうか。世銀で実際に行われていることは、この熟議に近い。政治の現場と異なり、当事者全員の意見を吸い込むことに拘る必要はない。だが、コンサルテーションと呼び、多くの議論を集約する。世銀では対抗勢力をいかになだめすかしつつ「正しい」ことをするかが大切で、学界との交流の目的は、政策を正しくすることと、それを説得的に証明することである。世銀目線に立つと、じゃあどの学者と交流するか、その決定方法が大事に思える。学者は、たとえばノーベル賞をとったら、声を世銀に通しやすくなる。学界でまず権威を得ることだ。そして、世銀とのコネクション。それらの制約から、学界にいながら世銀を伺うのは、博打に近くなる。変換効率が悪いというのはもうひとつあり、世銀はそれ以前に採用しているポリシーを棄てるのをためらうから、学界がどう批判しようと無視されるということだ。世銀にいたときはそんな感覚をもった。メールのやりとりとかを見れたから。でも、僕が見たのは本当の一部だから、実際にどうかはよくわからない。


多少話が逸れたけど、疲れたのでまとめに掛かる。熟議を上手く成立させる、世銀において有効なポリシーを作るために学界とうまく連携する。それはどうすれば可能になるのか、それを考えることが、Science of Deliveryの上流の問題としてある。それは制度設計学が担っている。