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落書

何かに疲れたときに僕氏が何かを吐き出して現実に帰っていくための架空の場所です。

夏の短期世銀インターン7

昨日の晩に考え事をし始めたら止まらなくなり、2時間睡眠で出社した。元も子もない。三日坊主状態になっていた朝のジムの習慣を復活させよう。


8月16日
恒例のブランチ。以前、僕が英語を間違えて失礼な発言をしてしまった人に遭遇する。あれからぎくしゃくしてしまっているような。あの瞬間に謝ったのは確かなのでどうも再度そのことに触れるのは違う気がする。とにかく、ミスの上塗りをしないように誠実に話すことかと思って話す。なんだろう、こんなとき、やっぱり相手が日本人だったならもう一歩踏み込んで無理やり解きほぐす力があると思う。それが日本で時間を使いすぎてしまった自分の弱点なんだろうか。ひとつひとつ、恥を書きながらトライアンドエラーをしていくしかない。それでも、多文化の中で、自分とぜんぜん違う人に囲まれながら化学反応の可能性を見据えていくのが好きだ。この刺激を味わってしまったら、日本はなんか物足りない気がしてしまう。


それから、法務部の実質トップの方がふらっとフルーツをとっている僕の目の前に現れた。とっさに挨拶したものの、二の句が継げない。質問できることはたくさんあったはずなのに、とっさにその威光を前にすると、なぜか当たり障りのない話をして、冒険をしなくなってしまう。ひるむ。これは場数を踏めばなんとかなるものなのだろうか。今のところは、やはり事前の準備をしておくことぐらいしか思いつかないので、次会ったときは中身のある会話ができるように用意をしておこうと思う。


このような大組織のトップに近い立場に立つ人と話す、という経験は、振り返ってみるとほとんどない。大学の頃はあまりアクティブな人間ではなく、大学のガラパゴス化した世界を存分に楽しんでいた。日本の芸能界のような、スーパーハイコンテクストのコミュニケーションに埋もれていて、それはそれで楽しかった。しかしこのような場面になると、経験の甘さが露呈する。近い経験と言えば、名古屋大学の濱口総長とパネルディスカッションで話したことがあったが、そのとき僕がした質問はふたつ。名古屋大学の法整備支援プロジェクトを引き合いに出して、日本の国益と他国の利益が衝突したときに日本のリーダーはいかに行動するべきか、という質問と、人生の岐路に立つような場面で、今までどのような考え方を持って決断を下してきたのか、という質問。どちらも面白い回答を引き出せたのでよかった。ここから学べば、自分の得意分野に無理やり引きずり込むこと(1つめのパターン)と、リーダー論や人生論など一般性の高い話題を持ち出すこと(両パターンとも)か。こんな質問をブランチの時間にしてどうする、という嫌いはあるが。頭の片隅に入れておこう。


初めてIFCの方に行った。IFCはIBRD/IDAが入っている本部からは数ブロック離れていて、建物は本部と比べると重厚で歴史を感じさせる。僕の研究課題のケーススタディがインドネシアというよしみも手伝って、近々インドネシアに赴任される方とお会いすることができた。世銀と比べたとき、IFCは数値化された融資のポートフォリオがあるから結果を基準にしたオペレーションで業務改善が目に見える形で進んでいて、世銀に比べれば意思決定も早く官僚的な組織も改善されているという。しかし、まだまだ意思決定の遅さなどが感じられるとのこと。僕がいる世銀の法務部は組織はかなり官僚的だし、司法改革部門なんかは、インパクトを数値化しづらいしするべきではない場合もあり、結果として漫然としたオペレーションになってしまいがち。評価学という学問分野を形成して研究が急ピッチで進められていて、法の支配指数、なども開発されているが、批判も強い。法務部以外も含め、官僚的な組織構造についてはいまメスが入れられているそうで、来週お会いする予定の人はおそらくその部分にも絡んでいるはずなので、今からお話を伺うのが楽しみ。


それから、その方が以前ブータンという国に行かれていたこともあり、僕のミャンマーでの経験を引き合いに出して、宗教がいかに人の行動準則として機能しているかという話をした。しかしブータンでも最近ではインド・中国に挟まれる環境も手伝い、拝金主義に近い考え方が人々の行動に影響を及ぼし始めているということ。これは東南アジアで言うとラオスが好例で、中国の影響をもろに受け小乗仏教に支えられたのどかな文化が失われつつある。しかしそれが経済発展には必要で、ゆくゆくは人の幸福に繋がりうる。何が本当に人々の幸せになるのか、というのは、つねに頭を動かし続けてパターン化思考を避けなければならないテーマのひとつだ。少なくとも格差の回避を実現した資本主義社会が見られない以上、単純に資本主義の波に飲まれていってしまうことが、国民全体の幸せにそのまま繋がる道ではないというのは明らかだ。このブータンの話をもっと伺いたかったが、いつのまにか僕の進路相談になってしまっていて、ちょっと後悔している。


今日リサーチの過程で関連する論文を読んでいた。腐敗の分野は経済学からの分析が主体で、完全情報を持ち自らの嗜好を理解して合理的な判断を下す人を想定して、そのベースをもとに研究が成り立っていく。その大胆な想定を確信犯的にすることで、仮初の検証可能性を高めた経済学は、自然科学に最も近づいたとされノーベル賞の地位を与えられている。その想定はもはや昔の話で、行動経済学などは、それを崩してモデルを現実に近づけようという努力のひとつ。さて腐敗は、この古い経済学のベースから出発してインセンティブモデルを用いて、不正を働くことで得られる利益が、不正のリスクや賄賂額などを総計したコストを上回るから発生する。だから解決策は、腐敗のコストを上げることを考えて生まれる(利益を下げること、というアプローチも理論上あるが、現実的でない)。しかし、最近の腐敗研究は見直され、腐敗の発生メカニズムを単純な費用便益分析で説明することを疑う。人の行動を決定するメカニズムを因数分解してより厳密に分析しようとする。その修正のひとつとして、宗教が行動に与える影響を勘案する。上の宗教が行動準則となるというエピソードと関わる。宗教は本当に人の行動を変えると実感しているから、この論文の新しいアプローチもリアリティを持って読める。これが現場を見る大切さってやつだろうか。人の行動準則の解明なんて、冷静になると嫌らしいことをやっているもんだ。そして、毎日生きていてその複雑さはもちろん実感する。例えば、日本企業で一回も働いていない僕が、世銀を6時に退社することに罪悪感を覚え、ときに残業する、この現象はどう説明がつくのか。これをモデル化できるのか。もうちょっと理論動向を追ってみたい。


以下はよもやま話。人が年齢を重ねるにつれて新しいことへの順応力を失っていくのはなんでか、という話を同僚としていた。急になんやねん、と煙たがられたが。面白いディスカッションだったので書き留めておく。まずは自分のダウンタイムを充足する好きなこと、趣味などが、大人になると大概特定されているから、好奇心旺盛に新たなものを求めるインセンティブが減るといこと。そして二点目は、第一のインセンティブ低下に引きずられてできないことを一から学んでいくという機会が圧倒的に減り、学習能力が錆びついていくということ。裏を返せば好奇心旺盛に新しいことを求めていく姿勢を忘れなければ、若い柔軟な思考を保てるかもしれない。それから、画一化された生活パターンというのも手伝っているかもしれない。一定の生活リズムを保っていくのが楽でかつ一日の効率向上に繋がることは誰もが経験的に学んでいく。新しいことを導入するとそのリズムを崩すことになる。だからなおさらインセンティブがない。(なんか書いてみるとあたりまえすぎて申し訳ない気分。)大学院になって時間のあいまを縫って何回かカポエイラ教室に通った時に、あまりに何もできない自分に、久々の感覚を覚えたのを今も鮮明に思い出す。大事なことを思い出すきっかけになった。そしてまだ、なんとなく上達するためのパターンを体が覚えていた。アラビア語を勉強し始めたときもそうだ。着実に努力を重ねてできないことをひとつひとつできるようにしていく肌感覚は、ずっと持ち続けたいし、そういう機会は意識的に作り続けたい。